山の辺の道「奈良道」を想う

山の辺の道は、三輪山の山麓から現在の天理市石上にある「ふるの杜」(石上神宮)をへて、奈良の地から更に山背を通り、日本海へ通じる古代の重要な幹線道路でした。

この路の天理から奈良への道は、「記紀」・「万葉集」に表れる地名や物語が伝えられるロマンの道であります。

また、「青垣山うるわし倭」と詠まれ奈良盆地を実感し得る金剛葛城・二上山や信貴生駒の峰を遙かな西に展望し、東の山裾の静けさとが合い、四季それぞれの心を癒す光景が広がっています。

これに多くの遺跡地と寺社が合奏して、逍遥の歴史街道であります。

 

1.新薬師寺

光明皇后が、聖武天皇の病気平癒祈願のために新薬師寺を建立した際七仏薬師を造立したと「東大寺要録」の記録にみられます。平成20年、寺の北西にある奈良教育大学の敷地から、創建当初の金堂と看做される跡が発見され、その規模の壮大さが判明しました。東西54m・南北27mもあり、平面規模は東大寺大仏殿に迫るものとほうどうされました。

現在のお寺の本堂、薬師如来、十二神将(一軀は後補)は当時の寺の子院のものと推定され、何れも奈良時代を代表するものとして国宝に指定されています。

(写真 第一回フォトコンテスト 入選 「新薬師寺 秋景」 福川美佐男 様 作品)

2.鏡神社

肥前松浦にある本来神功皇后を祭神とする社で、境内に藤原広嗣の御霊社ができ、その後に御霊信仰の盛行につれ、御霊社が鏡神社の如く思われるようになった。

広嗣は天平12(740)年、大宰少貮であった時に、九州で反乱を起こして誅された。その怨霊を鎮めるための御霊社が、平城京に勧進されたと推定されるが、最初は福智院の境内に所在した。

その後、現在の新薬師寺の門前に移されたと伝えれる。

3.宅春日神社

祭神は天児屋根命と比売神です。奈良時代に天児屋根命が、東大阪市の枚岡神社から春日大社へ勧進される途中に、一時休憩された場所と伝えられる。

昔、この地を大宅郷と称していたので宅春日と名付けたという。境内に「杉大明神」「松大明神」の燈籠がある。


◎宅春日神社の秋祭りのページへ

4.白毫寺

真言律宗の寺で山号は高円山。本尊は阿弥陀如来坐像、閻魔王坐像、司命、司録の閻魔一族の像、太山王などで国重要文化財。天智天皇の皇子志貴親王の離宮を寺としたと伝えられ、岩淵寺の一院であったとも、また、鎌倉時代に叡尊が再興したという。

奈良盆地の西側に連なる生駒山、信貴山、二上山に至る眺望は絶景だ。境内にある五色椿は天然記念物で、奈良三銘椿の一つに数えられ、また萩の寺としても名高い。

(写真 第一回フォトコンテスト 佳作 萩こぼれる古刹 山本明子様作品)

5.岩淵廃寺跡

高円山の野辺は、聖武天皇が離宮を営まれたところで、弘法大師の師である大安寺の聖僧・勤操大師が、自坊の岩淵寺を開かれた霊山でもある。江戸時代初期の「八重桜」に、「この寺はもと千坊あり、数々霊仏霊像多かりしが次第に零落し、今は草むらばかりなの」とあるところから、高円山の麓に多くの坊があったと思われる。一説には、白毫寺・帯解寺もその一院であったとか。また、新薬師寺の十二神将像は岩淵寺から移されたといわれている。

 

6.八阪神社

祭神は素盞鳴尊、尊は天照大神の弟で、乱暴して出雲に追放されたがそこでヤマタノオロチを退治し、助けた櫛稲田姫を妻とした。

縁結びの神とされる。

7.奈良県護国神社

昭和17年の創建で、明治維新より第二次世界大戦終結までの国難に殉じた、奈良県出身の英霊29,243柱を祀る。大和義挙25柱、戊辰戦争33柱、西南の役61柱、日清戦争157柱、日露戦争746柱、第一次世界大戦59柱、満州事変60柱、第二次世界大戦28,068柱。

境内に満州開拓義勇軍慰霊碑・ビルマ戦線戦没者慰霊碑が建つ。

万葉の花「椿」・数千本が境内に植樹され、椿の名所として人々は花を愛で、万葉歌を口ずさみながら境内を散策し、英霊に感謝の誠を捧げている。。

境内は鹿野園台地の西先端に位置し、北方の若草山、高円山の展望はとても素晴らしい。

8.古市城址跡

東市小学校の小字古城、高山、城山にある。15世紀後半から16世紀初頭に至る古市氏の居城、古市氏は常に越智氏と結び、筒井氏に抗し数度にわたって合戦した。特に古市胤栄と澄胤は、大和を代表する棟梁的地位を保ち、風流武将として有名で、一時、山城國相楽などに勢力を伸長した。1508年に幕府軍に攻められ自害、1511年に筒井氏、十市氏に攻められ敗れ、1521年に筒井氏に攻められ焼き討ちされた。

支城として油山城、鹿野園城、鉢伏城、城山城、藤原城、山村城などがある。

9.横井廃寺跡

明治28年、金堂址(推定)から金剛観音菩薩像、山雲双鳳鏡(重文)、古銭などが出土した。以下はすべて推定である。

創建は飛鳥期とされ、西向きの四天王寺式伽藍配置であったと推定される。講堂跡に礎石1ケが畔道に残存、金堂跡にも1個残存する。

また塔跡にも2個の礎石が田の中に埋もれており、積極的特徴はないが大きさから礎石で、原位置から移動していると考える。なお、金堂跡からは金剛仏、鏡、古銭、銅椀、刀剣破片が出土し、地鎮のためのものと推定される。